ステファノの説教2

場所:ヨハン早稲田キリスト教会,ヨハン教会
早天祈祷会2011.8.31
聖書本文:使徒言行録7章37節~53節
主題:ステファノの説教2

2番目に、モーセを通して脱出したイスラエルの民の偶像崇拝は、長く続く罪の根となってしまったことが分かります。
使徒7:42『イスラエルの家よ、お前達は荒れ野にいた40年の間、わたしにいけにえと供え物を捧げたことがあったか。7:43お前達は拝むために作った偶像、モレクの神輿やお前達の神ライファンの星を担ぎまわったのだ。だから、わたしはお前達をバビロンのかなたへ移住させる。
ここにはイスラエルの民の荒れ野での放浪生活で何があったかを物語っています。彼らは金の子牛を作って礼拝しただけでなく、異邦人の神であるモレク、ライファンの偶像を拝んだことが記されています。それは約BC1400年位の出来事でした。しかし、このような彼らが荒れ野で犯していた罪は、彼らの代で終わらなかったのです。実に、この預言では、イスラエルの民がバビロンに捕囚されることを預言しています。実に、出エジプトの出来事から約700年後の出来事です。つまり、このようにして、バビロン捕囚という出来事、またその出来事の発端になった偶像崇拝は、実にその700年前の荒れ野時代からの負の遺産であり、受け継ぎたくない悪質な罪性であることが分かるのです。
いつに、偶像崇拝の罪は荒れ野の40年から始まりました。この罪の根があらゆる霊的な破壊の基礎となったのです。歴史の流れを知る者は、これらの過去の出来事が現代に至るまで跡を引いているのが分かります。同じことはこの日本にも言えます。2000年に以上の偶像崇拝の歴史を持つこの国は、真に唯一なる神を礼拝したことがほとんど歴史上ありません。そんな中で、霊的な荒れ野と呼ばれる日本の土壌、主を受け入れてもすぐにつまづいてしまう貧弱な霊的土壌があります。
今週からサマーアカデミーが始まっています。来週は日本のキリストの教の歴史を戦前、戦時中、そして戦後から現代に至るまでを学びます。クリスチャンは歴史意識を持たなければならないと言います。なぜならば、今を生きる私達の世界の霊的状況は、過去の霊性の流れの中で起きているからです。日本に戦国時代、キリスト教がどのように伝わり、そして江戸幕府を通してどのような迫害があり、そして一時は信仰は根絶やしにされたようにも見えながら、隠れながらその信仰は受け継がれ、ある時に外国の圧倒的な圧力により、強制開国させられ、再びキリスト教が日の目を見る日本の歴史を見ることができます。そしてキリスト教が広まると思いきや、中国、ロシア、そしてアメリカを相手に戦争をはじめる中で、国家はナショナリズムに走り、天皇が生ける神になり、国家が天皇を神として礼拝する、宗教軍事国家に日本は変質したそのひどい有様を見ることができます。そして教会には天皇崇拝が強制され、多くの教会は偶像崇拝の罪に転落して、主に罪を犯しました。
私達のしてきたことは、このイスラエルの民と何ら変わりはありません。今を生きる私達はどうですか?先祖の罪は私達と関係ないですか?いいえ、それらの遺伝子を我々は受け継いでいます。私達の世代が心からこの罪を嘆き、悲しみ、胸を打ち、涙を流しながら悔い改めない限り、日本の霊的な未来に希望はないのです。クリスチャンの使命があります。クリスチャンにしかできないことがあります。それは民族の罪を担い、悔い改めの祈り、執り成しの祈りを捧げることです。今こそ、私達は筍長やリーダーたちか悔い改めましょう。自分自身の幸せの追求を乗り越え、悔い改めと共に人々を活かす働きを行う者になりましょう。
多くの兄弟姉妹が、歴史意識を持ち、ネヘミヤのように『私も、私の父の家も罪を犯しました』と真実な告白を主に捧げることを願います。

ステファノの説教

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早天祈祷会2011.8.31
聖書本文:使徒言行録7章37節~53節
主題:ステファノの説教

今日の本文は使徒言行録7章、ステファノの説教です。今日の本文でステファノはモーセに反発するイスラエル民族とカナンの地でも偶像崇拝を続け、バビロンに捕囚される先祖たちを例に出しながら、今も神が遣わされた預言者たちに反抗し、救い主イエスを殺したユダヤ人達の心の頑なさを断固として指摘する厳しいメッセージを聞くことができます。そして、彼らはステファノのメッセージを聞くに堪えず、結果として石で打ち殺してしまいます。ここで、私達はステファノのメッセージを通して、彼が語ろうとしていた主の御旨を分かち合いたいと思います。ここで指摘されているイスラエルの民の罪は、今を生きる私達にも当てはまるからです。
7:37 このモーセがまた、イスラエルの子らにこう言いました。『神は、あなたがたの兄弟の中から、わたしのような預言者をあなたがたのために立てられる。』 7:38 この人が荒れ野の集会において、シナイ山で彼に語りかけた天使とわたしたちの先祖との間に立って、命の言葉を受け、わたしたちに伝えてくれたのです。 7:39 けれども、先祖たちはこの人に従おうとせず、彼を退け、エジプトをなつかしく思い、 7:40 アロンに言いました。『わたしたちの先に立って導いてくれる神々を造ってください。エジプトの地から導き出してくれたあのモーセの身の上に、何が起こったのか分からないからです。』
ステファノが指摘したイスラエルの民の罪性は何でしょうか?それは、常に霊的に逆戻りしてしまう霊性でした。ゴム紐は伸びたと思ったけれど、力を緩めるとまた縮んでしまいました。彼らはモーセを通して紅海の奇跡を体験しました。他にも様々な奇跡を通して、彼らは主が生きて働かれる真の神であることを体験しました。しかし、何か彼らの歩みに苦しみや試練が来ると、その度に彼らは過去に奴隷状態であったエジプトでの生活をなつかしむようになりました。つまり、彼らは奴隷根性が抜けきらなかったのです。神の聖なる国民に変化するのでなく、奴隷としての根性を抱いたまま、荒れ野での旅と続けました。それゆえに、試練の度に霊的な指導者であるモーセに反抗しました。そしてシナイ山でモーセが40日間山頂で神と語り合い、律法を頂く時に、霊的な指導者が不在なのを不安に思う彼らは、偶像を作り、それに頼ろうとしたのです。それが今日の39節、40節の語る出来事です。出エジプト記32章の『金の子牛』事件です。
そして何よりもモーセという霊的指導者が不在になると、途端に民は堕落しました。このようにして、人間は指導者を失うと、すぐに信仰の道を外れていってしまう罪性を持っているのです。自分一人の力で信仰守れますか?成長できますか?誰もが自分を良い意味で監督し、戒め、点検してくれるそのような先輩がいるからこそ、怠けや反抗から守られているのです。これが恵みです。私達はこの教会において数多くの僕が、自らの信仰を守り、助けてくれる恵みに改めて感謝しましょう。そして、私達はイスラエルの民のように、霊的な指導者に対してすぐに不平不満、文句を言う民になってはいけないのです。むしろ同じ心と同じビジョンを抱き、指導者と共に我々になることを願います。

初代教会の働き

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場所:ヨハン早稲田キリスト教会

早天祈祷会2011.8.23

聖書本文:使徒言行録4章1節~12節

主題:初代教会の働き

今日の本文は使徒言行録4章であります。初代教会の働きは、ペテロやヨハネたち、イエスの使徒たちの目覚しい働きによって進められて行きました。というよりもこれは使徒の働きではなく、本当は聖霊様の働きだということができます。しかし、当然のことながら、力強い福音宣教の働きは、しかるべき迫害を伴うものでした。

使徒 4:1ペトロとヨハネが民衆に話をしていると、祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人が近づいてた。4:2二人が民衆にえ、イエスに起こった死者の中からの復活を宣べえているので、彼らはいらだち、4:3二人を捕らえて翌日まで牢に入れた。に日暮れだったからである。4:4しかし、二人の語った言葉を聞いて信じた人は多く、男のが五千人ほどになった。

私たちは、使徒の働きがどのようなものであったかを改めて知ることができます。それは、2節にあるように『イエスの死者の中からの復活』でした。実に初代教会から今の時代に至るまで、決して変わらない福音の核心はイエスの十字架の死と復活です。これを述べ伝えることが伝道です。私たちは現在、宣教探訪に向かっている兄弟姉妹のために祈っていますが、まさに彼らは電車の中で、駅の中で4つの法則を通してイエス様の十字架と復活を述べ伝えています。私達はいつもこのことを意識しないといけません。しかし、私達が決して忘れてはならない伝道の核心は、主の十字架と復活を大胆に宣言することであります。そうしないと私たちは伝道ではなく、勧誘で終わってしまうからです。今日からは短期宣教チームも出発します。私たちは今一度、KOSTAも終わった今、これからは恵まれた分、主の十字架と復活を大胆に述べ伝える我々になりましょう。

 

2番目に、私たちは彼らの伝道の姿勢がどのようなものであったかを見ることができます。

4:6大祭司アンナスとカイアファとヨハネとアレクサンドロと大祭司一族が集まった。4:7そして、使徒たちをん中に立たせて、「お前たちは何の威によって、だれの名によってああいうことをしたのか」と尋問した。4:8そのとき、ペトロは聖たされて言った。「民の議員、また長老の方

まず、言えることは、大祭司たちが『お前たちは何の権威によって、誰の名によってああいうことをしたのか?』と問い詰めました。彼らは人々を癒すことも、自分達の領域だと思っていました。祭司として、人々を癒す働きをしていました。そこで「ああいうこと」とは何でしょうか?まさに人々の癒しの奇跡です。彼らはかつては漁師だった人々の教えや働きにより、自分達の立場が危なくなると思いました。

私達は、律法学者や祭司長たちがなぜ使徒たちに反発していたのか知ることができます。自分達だけがしていたことを、他の誰かに奪われたくない。

ここに、クリスチャンがやるべき働きがあります。それは、この世の中からあらゆる良い業の専売特許をクリスチャンの下に取り戻すことです。病院は誰から始まったのか?クリスチャンです。大学は誰から始まったのか?神学です。福祉事業は誰が始めたのか?クリスチャンです。この世のあらゆる人権、平等、福祉、医療、そういった働きはクリスチャンから始められたのです。今、この日本ではそういうあらゆる良い業がノンクリスチャンによって進められています。彼らは誰の名前によって良い行いをしているんでしょうか?自分の名前によってです。自分の名を広めるために、自分を偉く見せるために、良い行いをします。

世の人々がする社会的な慈善活動と、クリスチャンの良い行いは根本的に違わなければなりません。それはイエスの名前によってやることです。主を証しすることにつながることです。

祭司長たちは言います。『誰の名によって、ああいうことをしたのか?』クリスチャンが目覚ましい働きをする時に、『ああいうことをした』という行いの問題ではなく、『誰の名によって』という名前の問題になります。つまり、クリスチャンの良い行いは、良い行い自体が目的ではないのです。それが、イエスの名前につながらなければなりません。

この世の中に良い行いをするクリスチャンは沢山います。しかし、良い行いで留まってしまい、イエスの名前を証しすることまで至らない場合があります。

私達は、この世の中でも沢山の人々が良い行いをしているのを見ることができます。しかし、それは福音につながりません。私達は主を証しし、キリストの愛を世に伝えるために、良い行いに励む者になりましょう。

使徒たちは言います。

4:9今日わたしたちが取り調べを受けているのは、病人にする善い行いと、その人が何によっていやされたかということについてであるならば、4:10あなたがたもイスラエルの民全体も知っていただきたい。この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエスキリストの名によるものです。

10節に、この人が良くなって、皆さんの前に立っていると言います。この人は使徒3章の足の不自由な人です。ペテロがこの人を立ち上がらせました。人々はその業にイエスの業を見て興奮しました。しかし、ペテロの告白で大事なのは、その奇跡はイエスの名によるものです。そして、この人は良くなって皆さんの前に立っているとあります。ここに私達が目指すべきビジョンがあります。『良くなって、皆さんの前に立つこと』これがクリスチャンの使命です。

KOSTAでも人気のセミナー講師先生方がいました。その中の多くの講師先生は、もともと学生時代にKOSTAに参加して恵まれ、ビジョンを頂いた人です。彼らがKOSTAで恵まれ、主に献身する人生を送り、それゆえに人々から認められ、出世し、証し人になることを通して、再びKOSTAで今度は講師として若者たちに教えている。そういう姿を見ることができます。

そのような講師先生は言うでしょう。『私が良くなって、皆さんの前に立つのは、イエス様を信じたからです。主からビジョンを頂いたからです』ということです。KOSTAで講師をする先生方も最初から証し人なわけではなく、恵まれて、ビジョンを頂いて、癒されて皆さんの前に立つのです。

私達は、使徒言行録3章で癒された足の不自由な人、彼は癒されて終わるんではなく、良くなって人々の前に立ちました。主の奇跡の証し人として人々の前に立ちました。我々もそのように人々の前に立ちましょう。主が成し遂げて下さった御業を隠すのではなく、世の先頭に立ち、人々の前に立ち、自分が良くなったのはイエス様のおかげなんだと大胆に証しする者になりましょう。2002年の日韓ワールドカップの時にブラジルが優勝しました。その時の表彰式で、半分位の選手はブラジルのユニフォームを脱いで、JesusLovesYouというロゴが入った白いTシャツに着替えて、そして金メダルを背中の方に回して、そのTシャツに書かれた文字を前面に押し出してテレビに映っていました。これは日本では考えられないことです。自分達が背負った国家のユニフォームではなく、イエス様の名前が書かれたTシャツで、世界中の目にさらされました。これがつまり、良くなって人々の前に立つ事です。全ての良い事はイエス様のおかげです。ワールドカップ優勝できたのはイエス様のおかげです。そのような証しを主は喜ばれると信じます。

私たちは主の証人として生きるために選ばれました。主の証人として人々の前に立つために救われました。歓迎されるのではなく、迫害があるとしても、私達は主の前に証人として立つために呼ばれたことに感謝しながら、伝道する我々になりましょう

エリシャの死-3

場所:ヨハン早稲田キリスト教会,ヨハン教会
早天祈祷会2011.7.26
聖書本文:列王記下13章14節~25節
主題:エリシャの死-3

 

3つ目に、エリシャは死ぬまで用いられたのみならず、死んでなおも用いられました。それは預言者エリシャの働きはすべて、聖なる神の霊の働きであったことを証ししています。

13:20エリシャは死んで葬られた。その後、モアブの部隊が毎年この地に侵入して来た。

13:21人々がある人を葬ろうとしていたとき、その部隊を見たので、彼をエリシャの墓に投げ込んで立ち去った。その人はエリシャの骨に触れると生き返り、自分の足で立ち上がった。

彼は生涯の最後に至るまで用いられました。それゆえに、主はその死んだなきがらの骨に触れた死んだ人さえも生き返らせました。エリシャは死にました。しかし、その働きは、未だに死んだ人を生き返らせました。私達は、エリシャの働きが何であったのかを知ることができます。それは人々に命を与えることです。

ヨハネ20:31これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

クリスチャンの働きは霊的に死んだ者に命を与えることです。命を与える御言葉を語ることです。エリシャはこの為に用いられ続けました。クリスチャンも人々に命をもたらすために用いられなければなりません。それ以外の目的は、神の栄光にはならないのです。また、私達はエゼキエル書の預言を思い出すことができます。

エゼキエル37:9主はわたしに言われた。「霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る。」37:10わたしは命じられたように預言した。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった。

死者に命を与えるのは聖なる神の霊の働きです。エリシャは死んでその霊は天に召されました。しかし、エリシャの留まったエリヤから受け継いだ神の霊は、死んだ人間を蘇らせました。私達は、このようにしてエリシャが最後まで主に用いられたその働きは、エリシャ自身の内にあるのではなく、ただ聖なる神の霊の働きそのものであったと確信することができます。エリシャの体も魂も、その聖霊様の宿る器に過ぎなかったのです。

私達もそうです。全ての主の御業は生きている人間の内にあるのではなく、聖霊様の働きであることを確信しましょう。そして、エリシャやエリヤは特別な人間ではありません。『私達と同じ人間であった』とヤコブの手紙には書いてあります。主が必要とされるのは頭脳明晰な天才ではありません。聖霊に満たされるに相応しい聖なる器、準備された器です。私達が聖霊に満たされる器として備えられる時に、整えられる時に、私達はエリヤやエリシャのような力に満ち溢れた働きができることを信じ期待しましょう。

エリシャの死-2

場所:ヨハン早稲田キリスト教会,ヨハン教会
早天祈祷会2011.7.26
聖書本文:列王記下13章14節~25節
主題:エリシャの死-2

2番目に、泣きすがるヨアシュ王に、エリシャは助けの手を差し伸べました。
13:16エリシャがイスラエルの王に、「弓を手にしなさい」と言うので、彼が弓を手にすると、エリシャは自分の手を王の手の上にのせて、13:17「東側の窓を開けなさい」と言った。王が開けると、エリシャは言った。「矢を射なさい。」王が矢を射ると、エリシャは言った。「主の勝利の矢。アラムに対する勝利の矢。あなたはアフェクでアラムを撃ち、滅ぼし尽くす。」
エリシャは王にとても重要な事を教えました。あなたが射る弓矢は、主の勝利の矢であり、アラムに対する勝利の矢であると。エリシャは王がアラムからの侵略の危機を逃れる方法を教えました。しかし、ヨアシュ王はどうしたんでしょうか?
13:18またエリシャは、「矢を持って来なさい」と言った。王が持って来ると、エリシャはイスラエルの王に、「地面を射なさい」と言った。王は三度地を射てやめた。13:19神の人は怒って王に言った。「五度、六度と射るべきであった。そうすればあなたはアラムを撃って、滅ぼし尽くしたであろう。だが今となっては、三度しかアラムを撃ち破ることができない。」
彼はただ3度だけ弓を射て、それで終わりにしてしまいました。本当は五回、六回いるべきであったのに、王は三回で止めてしまいました。ここに、この王の中途半端な期待感と中途半端な信仰があります。
私達は、中途半端な信仰は、中途半端な結果しか残さないことを知らなければなりません。
エリシャは王に勝利の方法を教えました。しかし、王はそれを半分の期待感と半分の信仰でしか受け止めることができませんでした。心には半分の疑いと半分の迷いがありました。

主がこの地における主の働きで、未だに示されていない、足りないものがありますか?一つもありません。何よりキリストの霊である、聖霊様が私達1人1人に与えられています。これ以上何を求めますか?私達が主が与えられた聖霊様の偉大な働きに対して期待感を持ちましょう。また私達の教会に与えられた福音宣教の道具に対する確信を持ちましょう。中途半端な信仰は、中途半端な結果しか残さないことを心に刻みましょう。
そして、私達は神の預言者の最後の怒りを見る事ができます。エリシャは王の中途半端な信仰に怒りを覚えました。またその怒りはエリシャがいかにこの国を愛しているかを見る事ができます。エリヤもエリシャも主がこの北イスラエル王国の為に備えられた戦車であり、騎兵です。それはこの国に霊的な勝利をもたらす為に主が送られた僕です。だから、彼らは北イスラエル王国を愛しました。それゆえに厳しい御言葉を語りました。
真の預言者は真の愛国者です。私達はこの日本を愛し、この民族を愛するならば、いつまでも主の下に帰らない不信仰な民に対して、神の義の心をもって祈り、述べ伝える私達になりましょう。

 

エリシャの死

場所:ヨハン早稲田キリスト教会,ヨハン教会
早天祈祷会2011.7.26
聖書本文:列王記下13章14節~25節
主題:エリシャの死

おはようございます。今日の本文は列王記下13章であります。エリシャの最後の働きと死に関する本文が今日の箇所であります。私達はエリシャの死をただ1人の預言者の死と受け止めることはできません。なぜなら、これはエリシャの死に留まらず、エリヤから受け継がれた偉大な霊的な働きの一つの終わりを意味するからです。預言者エリヤが表れた時、北イスラエル王国はアハブ王の時代であり、最も霊的に暗い時代でありました。そんな中で突如現れた働きがエリヤを通した主の御業でした。主は霊的な暗黒時代に、主の僕を通してその暗闇に光を照らす働きを準備しておられます。そしてエリヤの働きは続けてエリシャに受け継がれたのです。それがどのようにして一つの終わりを迎えるのか、見て行きたいと思います。
13:14エリシャが死の病を患っていたときのことである。イスラエルの王ヨアシュが下って来て訪れ、彼の面前で、「わが父よ、わが父よ、イスラエルの戦車よ、その騎兵よ」と泣いた。13:15エリシャが王に、「弓と矢を取りなさい」と言うので、王は弓と矢を取った。
ヨアシュ王はイエフ王朝の3代目の王です。北イスラエル王国はその罪のために次第に弱体化されてしまいました。それは13章7節にあるように、騎兵50、戦車10台、歩兵1万しか残されませんでした。そんな中で、ヨアシュ王はエリシャが死の病にいることを聞いて、泣きすがりました。私達はエリヤが昇天する時に、エリシャが告白した言葉を思い出します。
列王記下2:11彼らが話しながら歩き続けていると、見よ、火の戦車が火の馬に引かれて現れ、二人の間を分けた。エリヤは嵐の中を天に上って行った。2:12エリシャはこれを見て、「わが父よ、わが父よ、イスラエルの戦車よ、その騎兵よ」と叫んだが、もうエリヤは見えなかった。エリシャは自分の衣をつかんで二つに引き裂いた。
ヨアシュ王は、エリシャと全く同じ言葉を告白しました。これはどういう意味でしょうか?これは、北イスラエルの命運を握る人物は、結局のところ、預言者エリシャであることを認めたヨアシュ王の真実な告白だということができます。エリシャの前任者エリヤは、当時の王アハブからどのように言われたんでしょうか?
列王記上17:18アハブはエリヤを見ると、「お前か、イスラエルを煩わす者よ」と言った。
アハブ王にとって、エリヤはイスラエル王国の邪魔者であり、煩わしい存在にしか思えませんでした。しかし、エリシャの時代、ヨアシュ王はエリシャに対して『イスラエルの戦車よ、その騎兵よ』と告白せざるを得ませんでした。神の僕こそが、国家の運命を握っておられます。ヨアシュにはわずかの戦車と騎兵しか残されませんでした。その時に、彼は悟りました。イスラエルの本当の戦車であり、騎兵は神の預言者エリシャだということです。これはヨアシュの敗北宣言です。『私は無力です、助けて下さい』ということです。
クリスチャンはどういう存在でしょうか?本当にこの国と民族を守る霊的な戦車であり、騎兵はクリスチャンであることを信じるでしょうか?この世の経済力も科学技術も、この国を守ってはくれません。人々を本当に豊かにすることもありません。日本の経済力はパンを与えることはできます。科学技術は利便性を与えることはできます。しかし、人を活かす命のパンにはなり得ません。エリシャは黙々とエリヤの働きを受け継ぎました。彼の死に際して、国家の王は今までの預言者の働きを認めざるを得ませんでした。クリスチャンは罪と悪魔に立ち向かい、勝利を収める神の軍隊であります。私達がこの民族を守る戦車であり、騎兵であるという貴いプライドを持ちましょう。必ず世の中がそれを認める時が来ると信じます。

エリシャの奇跡-2

場所:ヨハン早稲田キリスト教会,ヨハン教会
早天祈祷会2011.7.7
聖書本文:列王記下4章1節~17節
主題:エリシャの奇跡-2

二つ目に、エリシャが出会ったのは、シュネムでの一人の裕福な女性でした。彼女は結婚していましたが、子供がいませんでした。そして夫は年老いていました。世の過去の歴史を振り返れば、子供がいない彼女は肩身が狭い思いだったはずです。しかし、彼女は恵まれた、裕福な環境の中で生きていました。

そのような彼女が始めた尊い主の奉仕は何でしょうか?それは主の僕を養うというものでした。

4:8ある日、エリシャはシュネムに行った。そこに一人の裕福な婦人がいて、彼を引き止め、食事を勧めた。以来彼はそこを通るたびに立ち寄って食事をするようになった。

4:9彼女は夫に言った。「いつもわたしたちのところにおいでになるあの方は、聖なる神の人であることが分かりました。4:10あの方のために階上に壁で囲った小さな部屋を作り、寝台と机と椅子と燭台とを備えましょう。おいでのときはそこに入っていただけます。」

彼女はエリシャがそこを立ちよる度に、食事をもてなすようになりました。また、預言者エリシャが十分に休みを取ることができるように、家の屋上に部屋を作り、そこで泊まることできるようにしました。つまり、彼女は預言者の為にゲストハウスを作りました。

ここに美しい信仰を持つシュネムの女性の姿を見ることができます。彼女には子供がいませんでした。当時からすれば、お金があったとしても、裕福でも、女性として何よりも慕い求めた子供がいませんでした。彼女は裕福な中でも、その欠乏感、不足感はあったに違いありません。それでも彼女は、「わたしは同族の者に囲まれて何不足なく暮らしています」と答えました。そして、

4:9彼女は夫に言った。「いつもわたしたちのところにおいでになるあの方は、聖なる神の人であることが分かりました。

と言いました。そうです。彼女は、自分が子供がいない、自分にはこれがない、あれがないという自分自身のことで捕われ、劣等感に陥り、自己憐憫に陥り、不平不満や虚しさの中で人生を生きるのではなく、必要が満たされていなくても、自分に与えられた財産を用いて、主の僕を養いたいという自分の乗り越えた心、主の僕を助けたいと言う奉仕の心、これが主に喜ばれたことは言うまでもありません。

私達の教会には、特に韓国部の男子宣教会、婦人会にこのような美しい信仰をもった人々を数多く見ることができます。先生方に心をこめて食事をもてなす奉仕をする婦人会の姿を見ます。教会全体の施設の奉仕、つい先週までも節電対策で発電機を教会の裏側に設置する為に、会社も休みながら教会で奉仕する執事さん達の献身的な姿を見ることができました。

いつまでも自分の会社、自分の家庭、自分のビジネス、それに捕らわれるのではなく、不足の中でも、欠乏の中でも、自分が主の僕に出会えたことが人生最大の喜びであるかのように、この通りがかりの預言者を無理にでも引き止めるシュネムの婦人がいます。この僕を助けたいという切なる愛と奉仕の心、こういう心で奉仕する韓国部の男女宣教会の姿をみることができます。それこそが、自分自身に囚われている心を捨て、自分に与えられたもので、主に最大限仕えて行きたいという『空の器』の心を持つ人々です。

愛する日本人部の男女宣教会はどうでしょうか?このシュネムの婦人はたしかに子供はいませんでした。正確に言うと、まだいなかっただけです。それでも、主の僕に仕えられるタイミング、そのチャンス、それを決して逃さない意気込みで仕えるこの婦人を主が祝福しないはずがないのです。

4:12従者ゲハジに「あのシュネムの婦人を呼びなさい。」と命じた。4:13エリシャはゲハジに言った。「彼女に伝えなさい。『あなたはわたしたちのためにこのように何事にも心を砕いてくれた。あなたの為に何をしてあげれば良いのだろうか。王か軍の司令官に話して欲しい事が何かあるのか。』」彼女は「わたしは同族の者に囲まれて何不足なく暮らしています」と答えた。4:14エリシャは「彼女のために何をすれば良いのだろうか」と言うので、ゲハジは「彼女には子供がなく、夫は年を取っています。」と答えた。

エリシャの言葉が主の御心を示しています。『あなたのために何をしてあげれば良いのか?』
主が私達に対して、『主である私は、あなたの為に何か良いことをしたい。何をしてあげれば良いのか?』このような主からの言葉を頂ける私達になりましょう。
彼女の信仰の成熟さは、「わたしは同族の者に囲まれて何不足なく暮らしています」と答えたその言葉に現れています。
主の御心に適うならば、願わなくても、主が勝手に答えて下さる。素晴らしいプレゼントを準備して下さる。

 

エリシャの奇跡

場所:ヨハン早稲田キリスト教会,ヨハン教会
早天祈祷会2011.7.7
聖書本文:列王記下4章1節~17節
主題:エリシャの奇跡

おはようございます。預言者エリシャはエリヤの後継者でありました。しかし、これは単なる人間的な世代交代ではありませんでした。エリシャがエリヤから受け継いだのは「神の霊」でした。つまり、これは人間の働き、仕事が引き継がれたのではなく、聖霊の働きが継承されたということです。旧約時代においては、ごくごく限られた人々を通して聖霊様が働かれ、主の業を成し遂げられました。私たちはエリヤとエリシャの働きも、聖霊様の働きに焦点を合わせることで、一貫して理解することができます。つまり、これは一人二人の例外的な特別な人物の話ではなく、聖霊に満たされた人がどのように主に尊く用いられたか、それを知ることができます。
今日の本文では、エリシャを通して行われた奇跡について書いてあります。エリヤが奇跡の預言者と言われたように、エリシャも奇跡を通して主の栄光を現わしました。1節~7節はある預言者の仲間のやもめを助けた話です。
4:1預言者の仲間の妻の一人がエリシャに助けを求めて叫んだ。「あなたの僕であるわたしの夫が死んでしまいました。ご存じのようにあなたの僕は主を畏れ敬う人でした。ところが債権者が来てわたしの子供二人を連れ去り、奴隷にしようとしています。4:2エリシャが「何をしてあげられるだろうか。あなたの家に何があるのか言いなさい。」と促すと、彼女は、「油の壺一つのほか、はしための家には何もありません」と答えた。
エリシャの仲間の預言者が死んでしまいました。迫害によって殉教したのかもしれないし、または病気で死んだかもしれません。残された妻と子供たちは財産もなく、債権者に追われて子供は奴隷に売られようとしていました。彼女に残されたのは『油の壺一つ』でした。
そんな苦しい中でも、彼女は預言者の妻でした。彼女はこの困難な状況の中で不平不満を言うのではなく、エリシャに助けを求めて叫んだのです。私達もそうです。困難な状況の中で、私達は不平不満を言うのではなく、落胆して沈み込むのではなく、主に切なる祈りを『叫び』として注ぎ出す私達になりましょう。このような助けを求めるやもめに対して、エリシャは助けずにはおかれませんでした。
4:3彼は言った。「外に行って近所の人々皆から器を借りて来なさい。空の器をできるだけたくさん借りて来なさい。4:4家に帰ったら、戸を閉めて子供たちと一緒に閉じこもり、その器のすべてに油を注ぎなさい。いっぱいになったものは脇に置くのです。」
4:5彼女はエリシャの元から出ていくと、戸を締め、子供達と一緒に閉じこもり、子供たちが器を持ってくると、それに油を注いだ。4:6器がどれもいっぱいになると、彼女は「もっと器を持っておいで」と子供に言ったが、「器はもうない」と子供が答えた。油は止まった。
エリシャの命令は簡単でした。空の器を近所から沢山集めて来なさい。そして、家に子どもと一緒に閉じこもりなさい。できるだけ沢山用意した空の器に油をすべて注ぎなさい。というものでした。
これは単なる奇跡ではありません。私達はこの出来事を通して、聖霊なる神様がどのように我々に対して働かれるのか、そのモデル的な姿を見ることができます。聖霊様は油に例えることができます。私達は聖霊様にどのように豊かに満たされて、信仰生活において勝利を収めることができるでしょうか?
まず、私達はこの預言者の妻のように何も持っていない、無力な存在であることを知るべきです。私達は黙示録のラオディキア教会の聖徒たちのように、『自分は豊かである』という錯覚に陥ってはなりません。むしろ自分の足りなさい、自分の弱さを十分に知る人こそが、全てを担って下さる聖霊様の働きに全面的により頼むことができます。この預言者の妻は夫を失い、子供が残され、困窮していました。そして彼女に残されたのは『油の壺』一つでした。しかし、主は言われます。私達には『油の壺』一つあれば従順です。全てを満たして下さる、全ての力の源、全ての人格の実りは、ただ聖霊様から来られます。私達は第一コリント12章を通して、あらゆる神からの賜物が、同じ一人の聖霊様から来る事を学んだはずです。
Ⅰコリント12:4、5
12:9~11
このようにして、主は聖霊様を通して私達の全ての必要を満たすことができると信じましょう。この『油の壺』こそが、救い主であるイエス・キリスト、聖霊様を送られ、聖霊のバプテスマを行うイエス様である事に感謝しましょう。イエス・キリストただお1人がいれば十分であります。
4:5彼女はエリシャの元から出ていくと、戸を締め、子供達と一緒に閉じこもり、子供たちが器を持ってくると、それに油を注いだ。
そして、この妻は主のエリシャの命令通りに戸を閉めて、子供と一緒に閉じこもりました。私達もそうです。主から力を頂き、尊い主の働きをするためには、閉じこもる必要があります。つまり、
ルカ24:49
にあるように、聖霊に満たされるまでエルサレムに留まり、マルコの2階の部屋に留まり、聖霊に満たされるまで祈り続けたその姿を思い出す事ができます。私達も全ての働きは聖霊に満たされるまで、できないものです。私達は何のために早天に祈りに来ているのでしょうか?これは心では、主と自分の二人だけの時間、閉じ込められた時間の中で十分に主と交わる一日の大切な時間です。聖霊に満たされるまで、主から力を頂くまで祈る我々になりましょう。
何よりも、主の命令は『空の器』を沢山集めなさいというものでした。そうです。必要なのは満たされた器、食べ物があふれている器ではなく、「空の器」です。私達が主にもちいられようとするならば、まず、私達の心を空にしなければなりません。
コロサイ3:5
にあるように、私達は心から情欲、憎しみ、不平不満、高慢、あらゆる主に喜ばれない心の不純物を取り去りましょう。なによりも主に頼らなくても自分の力で何とかできるという霊的な高慢さを取り除き、
マタイ5:3心の貧しい人は幸いである。天の国はその人たちのものである。
というように、心の貧しい人、主の前に無力であることを痛感し、切なる助けを主に求める謙遜な人こそが聖霊に満たされるのにふさわしい者である事を知りましょう。そして私達も主の前に謙遜にひざまずきましょう。
4:7彼女が神の人のもとに行ってそのことを知らせると、彼は言った。「その油を売りに行き、負債を払いなさい。あなたと子供たちはその残りで生活していくことができる。」
このようにして、一つの油の壺から、できるだけたくさん集められた空の器に満たされた油により、彼女は負債を支払、子供を奴隷に売らずに済み、また残された財産で生きていくことができるようになりました。私達に必要なのは食べ物と飲み物で満たされた100個の器ではありません。空の器ができるだけたくさん必要なのです。コスタのテーマであるように、キリストの心で世を変える私達になるためには、私達自身が主に満たされる空の器というキリストの弟子になりましょう。

 

彼には主の言葉がありますーその3

場所:ヨハン早稲田キリスト教会,ヨハン教会

早天祈祷会2011.7.5

聖書本文:列王記下31~12

主題:彼には主の言葉があります


そんな中で、さすがにユダの王ヨシャファトは違いました。そんな困難な状況の中でもただ慌てふためくのではなく、『主の御旨を訪ね求めましょう』という提案をすることができたからです。ヨシャファト王は南ユダの歴代の王の中でも主の御心に従う王でした。彼は日々、主の御心を訪ねる生活をしていたからこそ、こういう状況でも主の預言者を探し求めることができました。ここにヨシャファト王とヨラム王の信仰の違いがあります。私達はどうでしょうか?実際的な危機に陥った時に絶望して、嘆き悲しむ人がいます。しかし、そういう時に、主の御心を訪ね求める人がいます。我々が日々QTしているか?御言葉を黙想しているか?その姿勢が現れます。私達はどんな危機の状況でも常に、主の御心を訪ね求める霊的な体質の者になりましょう。

そして、人々は常に答えを求めます。時代は困難を増しています。日本においてもそうです。

東日本の震災を経験しながら、私達はどのように歩んでいけば良いのか?これからの日本はどうすれば良いのか?私達にとって何が最も幸いであるのか?政治家も経済人もこの問題に対して答えを与えることができません。

そんな中で日本において、この困難な状況の中で回答を与えることのできる存在がいるでしょうか?実に日本には真理を知らないから、霊的な問題における答えを与えることができる存在がいません。日本における霊的な権威は誰ですか?江原さんか細木和子か、新宿の母でしょうか?そんなマスコミで取り上げられる存在が私達の根本的な問題に解決を与えることができるでしょうか?

または人々は占いによって自分の運命を判断し、幸せになりたいと願いながらも、占いのどこに普遍的な真理がありますか?人生に対する、罪と永遠の命に対する明確な答えがありますか?人々は短絡的な、刹那的な幸せを得るために右往左往しています。まことの祝福の源が、主なる神から来るとしるべきです。だからこそ、私達クリスチャンが、このような暗闇の時代に対する答えになりましょう。KOSTAがそのような時代に答えを与える集会になることを祈りましょう。

第一ペテロ3:15心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。

エリヤとエリシャの時代は、イスラエル王国史上の最も霊的に暗い時代でした。希望が持てない時代でした。しかし、主はそんな絶望的な時代にこそ、それまでの時代のどれにも勝る輝かしい主の僕を備えておられました。エリヤとエリシャは、「彼には主の言葉があります。」と言える、時代に対する答えでした。

私達の時代もそうです。クリスチャンに聞けば、聖書に聞けば、答えが与えられる。教会に行けば、問題は解決される。また、KOSTAに参加すれば、人生のビジョンが与えられる。主なる神の言葉こそが、あらゆる時代における決定的な回答を与えることができます。日本において、人々はそれを知らないから迷っています。頼るべき存在がいません。

私達が、ヨシャファトがエリシャを評価したように、『彼には主の言葉があります』と言われるクリスチャンになりましょう。私達がキリストの心でこの世を変革する存在として、主の御言葉の剣を握り締めてこの世に答えを与える存在になって参りましょう。

彼には主の言葉がありますーその2

場所:ヨハン早稲田キリスト教会,ヨハン教会

早天祈祷会2011.7.5

聖書本文:列王記下31~12

主題:彼には主の言葉があります


2番目に、このヨラム王の姿勢は、主を訪ね求めない霊的な無関心の存在でした。

3:4モアブの王メシャは羊を飼育しており、十万匹の子羊と雄羊十万匹分の羊毛とを貢物としてイスラエルの王に納めていた。3:5しかし、アハブが死ぬと、モアブの王はイスラエルの王に反旗を翻した。3:6ヨラム王は直ちにサマリアを出て、イスラエルのすべての人々を動員し、3:7出発した。また使者をユダの王ヨシャファトに遣わし、「モアブの王がわたしに反旗を翻しました。わたしと共にモアブに行って戦って頂けませんか」と言った。ヨシャファトは、「わたしはあなたの民と一体、わたしの馬はあなたの馬と一体です。」と答え、3:8「我々はどの道を登ればよいのですか」と尋ねた。ヨラムは、「エドムの荒野の道を」と答えた。

ヨラムは、今まで従属させてきたモアブの王が、反旗を翻して反抗すると、復讐のために北イスラエルの人々を動員して戦争に出発しました。同時に、彼は臆病であり、自分達の国の力ではモアブを打ち破れないという不安もありました。それゆえに彼は南ユダの王ヨシャファトにまで助けを求めてきました。

そんなイスラエルを見ながら、いつまでも主に助けを求めない愚かな姿を見ることができます。北イスラエルの王達と、それでも主に従った数少ない南ユダの王の違いは何でしょうか?ヨシャファト、ヒゼキヤ、ヨシヤ王は危機に対してどうしたのでしょうか?困難な状況の時に祈ったのです。彼らは祈りをその武器として、盾として用いました。国家的な危機において、聖書では誰かの国家のための、民族のための執り成しの祈りを通して危機を乗り越えてきました。南ユダ王国ではそういった祈りによる勝利の証が何度も出てきます。しかし、今日の本文を見ても、モアブの反逆に対して北イスラエルの王が主に祈る姿をみることはできません。彼は軍事同盟に対してはいち早く動きました。人間的な戦略、策略、そういうことでは素早い人でしたが、祈ることには誰よりも遅い人でした。

私達は後6週間後にKOSTAを迎えようとしています。今年のKOSTAは特別な意味がある集会であるし、そうならなければなりません。東日本の震災の直後に行われる集会です。こういう国家的な危機の時にこそ、私達は人間的な方法ではなく、主に祈ることでこのキャンプを供える者になりましょう。

今、一人でも多くの人が参加して欲しいと誘っています。その中でも最も大切なことは、このキャンプが日本の危機に対する回答を与える集会になることです。また、それぞれの個人個人の霊的な問題における答えを与える存在になることです。

今日の本文で、モアブ王はどのような存在であったと書いてありますか?今まで数多くの豊かな羊の毛を提供する、豊かさの提供者でした。しかし、世の権力を誇ったアハブ王が死んだ今、今まで味方として、僕として従ったモアブはイスラエルの敵となりました。このように、世の中では本当に信頼できる存在はいません。昨日の友が今日の敵になります。

私達はこの北イスラエル王国の歩みを見ながら、同じく偶像崇拝に染められている日本の姿も重ねてみることができます。真の主を知らない国、それは主に頼るのではなくあらゆる人間的な策略や計画に頼らざるを得ません。アハブ王の時代はその武力により、モアブの王を押さえつけて羊毛を提供させていたかもしれません。しかし、時代は変わり、モアブはイスラエルに反旗を翻しました。私達が主を頼りに生きないのならば、常に変わりやすいこの世の力に振り回されて生きなければならないのです。

私達にとって、最も信頼すべき存在は隣の国でも人でもなく、主ご自身であると信じます。

 

そのような霊的な無関心であるヨラム王も、南ユダのヨシャファトと戦争を共にしたことで、彼は霊的な導きを受けることができました。

3:9イスラエルの王は、ユダの王およびエドムの王と共に出発したが、迂回するのに七日を費やし、部隊と連れて来た家畜のための水が底をついてしまった。3:10イスラエルの王は、「ああ、主はこの三人の王をモアブの手に渡すために呼び集められたのか」と言った。

3:11ヨシャファトが、「ここには我々が主の御旨を訪ねることのできる主の預言者はいないのですか」と尋ねると、イスラエルの王の家臣の一人が「ここには、エリヤの手に水を注いでいた、シャファトの子エリシャがいます。」と答えた。3:12ヨシャファトは「彼には主の言葉があります。」と言った。イスラエルの王は、ヨシャファトおよびエドムの王と共に彼のもとに下って行った。

このようにして、神の摂理により、ヨラム王はエリシャの元に導かれることになります。

私達は、ヨシャファトが「ここには我々が主の御旨を訪ねることのできる主の預言者はいないのですか?」と聞いた時に、『エリシャがいます』という答えがあったのです。つまり、エリシャこそは、この時代、この状況における解答でありました。

まず、ヨラム王の選択は間違いでした。

列王記下3:8「我々はどの道を登ればよいのですか」と尋ねた。ヨラムは、「エドムの荒野の道を」と答えた。

ヨラムの答えはただの自分なりの経験的な判断でした。彼は主に訪ね求めないから、祈らないから、

もっと困難な状況に陥りました。

戦争をしようにも時間を一週間も無駄にしてしまい、水も底をつく。イスラエルの王は絶望に陥りました。彼は主の御心を訪ね求めないで、自分なりの戦略、自分なりの判断で計画したので、『水が底をついて』しまいました。私達もそうです。主の御心を訪ね求めないで、自分勝手な道を歩むならば、私達の霊的、肉体的、物質的な資源は底をついてしまうようになるのです。

ヨハネ15:5わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。

一年も半分を過ぎました。今年2011年はどのようにして過ごして来たのでしょうか?私達があまりにも主と交わろうとせず、QTや聖書の通読、日々の祈りの生活をおろそかにしながら、ただ働きと実りに対する焦りの中で歩んでいたならば、悔い改めて主の御心を探し求める私達になりましょう。